気紛れDIARY
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 3月2日、東京プリンスホテル、パークタワーで第1回「渡邊晋賞」の授賞式と祝賀パーティーがおこなわれました。晋賞は、映画「踊る大捜査線 THE MOVIE」「ローレライ」「容疑者 室井慎次」「THE 有頂天ホテル」などのプロデューサー亀山千広さん(フジテレビ映画事業局長)、特別賞は作詞家岩谷時子さんにそれぞれ授けられました。

授賞式で。岩谷さんと筆者 この受賞にちなんで長年の知己、岩谷さんについて書こうと思うのですが、その前に今年から始まった渡邊晋賞についてちょっと。

 渡邊晋賞は、渡辺プロダクション初代社長、今は亡き晋氏のエンタテインメント・プロデューサーとしての功績をのちのちまで伝えるとともに、氏の足跡を継ぐ若い世代のプロデューサーを顕彰すべく設けられた新しい賞です。
 渡辺プロは昨年3月、創立50周年を迎えましたが、この賞はその記念事業のひとつとして設けられたもののようです。主催者は渡辺音楽文化フォーラム、審査委員長は渡邊美佐さん、委員には三枝正彰さん、林真理子さんらが名前を連ねています。
趣意書には、
 「選考対象となるプロデューサーは、大衆性、将来性を兼ね備えた独創的なソフト(作品、アーチスト)を生み出し、また、才能ある人材を登場、組織し、新しいビジネスモデルを構築し、大衆文化の発展に多大の貢献をしたエンターテインメント業界のプロデューサーです」
 とあります。どちらかというと縁の下の力持ちのようなプロデューサーにスポットライトを当てようというのは、とても意義のあることだと思います。
 戦後、映画界をリードし続けた故藤本真澄氏(「青い山脈」「浮雲」「隠し砦の三悪人」「若大将」シリーズなどをプロデュース。東宝副社長でもあった。)の名をつけた映画プロデューサー賞はありましたが、広くショウ・ビジネス全般を視野に入れたこのような賞は、これまでなかったのではないでしょうか。
 ちなみに3月2日は渡邊晋氏の誕生日とのこと。毎年、雛祭の1日前のこの日に授賞式がおこなわれる予定だそうです。

 ところで岩谷時子さんのことです。作詞家が本業のはずの彼女がどうして渡邊晋賞特別賞をもらったのか。晋賞はプロデューサー賞のはずですから、ちょっと不思議な気がしないではありません。しかし受賞理由をゆっくり読んでみてほぼ得心がいきました。
 まず第一。
「宝塚歌劇団出版部に就職。宝塚で越路(吹雪)と出会い、それ以来終生の親友となる。越路が宝塚を退団後も、越路と行動をともにし、越路が死去するまでマネージャーとして強い信頼関係で支えた」
 マネージャーは往々にしてプロデューサー的な役割を担うことがあるようです。自分が二人三脚を組んでいるアーティストの現状と行方を常に見極めなくてはならないのですから。

 岩谷さんは、越路の歌うすべての歌詞・作詞を手掛けてきました。「愛の讃歌」も「サン・トワ・マミー」も 「ラストダンスは私に」などすべて岩谷訳です。越路のレパートリーで例外なのはシャンソンの「雪が降る」(訳詞安井かずみ)とオリジナル曲「誰もいない海」(作詞山口洋子、作曲内藤法美)ぐらいしかないでしょう。
 ふと今、越路がヤマハホールで4回目のリサイタルをやったとき、狂言回し役の三木のり平が口にした科白を思い出しました。1957年春のことです。時子さん作詞の新曲を紹介するとき、こういったのです。
 「岩谷時子さん、この人はコーちゃんの座付作者です。もっとも今晩は入り口で受付もやってますけれど」

 越路吹雪がこの世を去ったのは1980年11月7日のこと。あれから四半世紀以上の歳月が流れました。生前、越路を支えた岩谷さんの努力がやっと今度の受賞で認められたわけです。かなり遅きに失した感がありますが、きっと越路も天国で喜んでいるにちがいありません。

 もうひとつの受賞理由は、作詞という仕事を通じてのプロデューサー的な仕事ぶりが評価されたということらしい。資料には、
 「年代やジャンルを問わず、幅広いアーティスト、音楽関係のスタッフから絶大の信頼がある」とした上で、「アーティストのキャラクターを生かす作詞は(中略)プロデュース的な役割を担っている」と述べられています。
 越路のマネージャーとして培った体験、その体験を経てより磨きのかかった感性が、ほかのアーティストに対してもきわめて有効に働くケースが多々あったということでしょう。

「岩谷時子百詞集」
(シンコーミュージック)と
「岩谷時子作品集」
(東芝EMI)
 岩谷時子さん作詞の歌の数々は、歌謡曲というよりJポップスの先駆けのようなものが多いと思われます。アットランダムに挙げると、岸洋子「夜明けのうた」(作曲いずみ・たく)、梓みちよ「リンデンバウムのうた」(作曲山本直純)、ザ・ピーナッツ「ウナ・セラ・ディ東京」(作曲宮川泰)、加山雄三「君といつまでも」(作曲弾厚作)、ピンキーとキラーズ「恋の季節」(作曲いずみ・たく)、郷ひろみ「男の子女の子」(作曲筒美京平)など……。

 うかつなことですが、私は今回の受賞で初めて時子さんの実年齢を知りました。授賞式で配られたプロフィールに明記されていたからです。なんと1916年3月28日生まれなんですね。それでは今月でちょうど満90歳じゃありませんか。1924年11月7日生まれの越路より年長だとは知っていましたが、まさか8歳も年上だったとは!
 時子さん、改めて卒寿おめでとうございます。いや、傘寿とか卒寿とか長寿のお祝いは数え歳で数えるのが慣わしですから、去年すでに卒寿を迎えられていたわけですね。
 身体のどこかを骨折されたとかで、近ごろ車椅子を使われているようですが、頬の色艶もよく、ほんとうにお若い。とてもそんなお歳には見えません。
 今も作詞の仕事をしない日はないというのですから、びっくりしてしまいます。

 授賞式後のパーティーでは久しぶりに岩谷さんとじかにお話ができました。電話でなら1週間ほど前、来日するサルヴァトーレ・アダモのことでお喋りしたのですが、こうしてお顔を見ながらお話するのは1年ぶり?2年ぶり?
 談たまたま、先ほど授賞式で彼女への祝辞をのべた宮川泰さんの話題になりました。
 「宮川さんが渡邊美佐さんや何人かで初めてアメリカにいったとき、スリッパをプレゼントしたことがあるの。そうしたらそのサイズが計ったようにぴったりだったんですって。どうして時子さんは彼のスリッパの大きさを知っているんだ、ふたりは怪しいって噂を立てる人が出てきて往生したわ。へ、へ、へ、へ……」
 多分、60年代のことだと思われます。随分昔の話ですが、時子さんの笑い声には、そんな噂を立てられたことがいかにも楽しかったという響きが込められていました。

 時子さんとはすでに1955年か56年に面識があったと記憶しています。童女のような顔立ち、楚々としたたたずまいは、長い歳月を経てもまったく変わりがありません。
 浮いた噂ひとつもなし。今日までずっと独身で通してきています。私は「童女のような…」と書きましたが、聖女にたとえた人もいるくらいです。
 ところが昔からドキリとするような歌詞を書いているのです。57年、ラテン歌手の宝とも子のリサイタルのために作詞した「あの人は」(作曲中村八大)には、こんな箇所があります。
あの晩、私はみんな貴方に上げてしまった
 大きな、二つの掌が、熱い私のほおをはさんで
首すじの雪を吸ってくれたから

 日本映画に唇と唇を寄せ合う接吻シーンが登場しなかった時代のことですから、「……上げてしまった」という歌詞がどんなに刺激的だったか、いや衝撃的であったか、想像を逞しくしてみてください。
 1963年、越路吹雪がリサイタルで披露した「お母さん」(作曲内藤法美)にも結構きわどいくだりがありました。「性教育みたい」(東京)「あぶな絵みたい」(産経)といった新聞評が出たくらいです。次のような一節があったからでしょう。

 私に添寝の寝床から、トコトコ
 夜中にぬけ出して
 どこへ行ったか知っていたわよ

 かつて私はこの歌について次のように書いています。(拙著「音楽界実力派」)所収岩谷時子さんの章)
 「『お母さん』という歌のヒントは、彼女が文部大臣賞を受けたさる高名な演出家から得たものだという。その演出家が、わが子に夜の秘め事について触れられ、ドキッとしたかどうかはともかく、彼の家庭のできごとを時子さんが小耳にはさんで、バラードにまとめたことだけは、ほんとうの話らしい」
 私が時子さんから直接ネタもとを聞いたから、こう書いたわけです。

 いったいその「高名な演出家」とは誰?当時は名前を伏せて書きましたが、最早40年以上も昔の話ですから時効でしょう。宝塚歌劇団の高木史朗さん(1915-85)です。高木さんは、文字通り華麗なレビュウ「華麗なる千拍子」の作・演出で芸術祭文部大臣賞を受賞しているんです。
 当時、私はかなり熱心な宝塚ファンだったので、この舞台の主役をつとめた寿美花代の艶っぽいタイツ姿が今なお目に浮かびます。
 現在、第一線で活躍中の高嶋政宏、政伸は、この寿美と高島忠夫の間に生れた長男、次男です。

 時子さんにめずらしく一曲だけカントリー&ウェスタン調の歌があります。越路が東宝芸術座で主演したアメリカ現代劇「バス・ストップ」(作ウィリアム・インジ)のために書かれたものです。
 映画にもなっていて、歌手をマリリン・モンロー、カウボーイをドン・マレイが演じました。越路がモンローの役をやったわけですが、相手カウボーイ役の俳優は小林桂樹でした。その小林が歌ったんです。作曲はジャズ・ピアノの名手松井八郎。

 昨夜(ゆうべ) 親父(おやじ)の形見のよ
 パンツはいて 寝たらばよ
 おふくろさんの  夢を見た

 時子さんは「自選百詩集」(シンコーミュージック)のなかで、この歌についてこう書いています。
 「初日が開くと同時に、裏方さん達がすぐ覚えて、楽屋へ入ると毎日、舞台裏で誰かがきっと、仕事をしながら歌っていた。曲はウェスタンで、いくつか続く三行詩だった。裏方さんが、歌いながら私を見てニヤッと笑うので私はテレていたものだ。
 カウボーイのパンツのつもりで書いたのだが、男性には下着と受けとられたらしい」
 
 そういえば、時子さんはじかに私にこんなふうにいっていました。
 「みんなエロ歌だなんてからかうの。あのお芝居、カウボーイのお話でしょ。だからパンツというのはジーンズのパンツのことです。鴨居羊子さんデザインのなんとかパンティではありません」

 ちなみに鴨居さんの大胆なカットと色合いのパンティは、スキャンダラスとパンティというふたつの言葉を合成してスキャンティと呼ばれていました。鴨居さん創作の下着類が巻き起こしたブームは、戦後史を彩る一大事件のひとつですが、すでに忘却の彼方だと思います。

 時子さん訳詞の越路シャンソンでもっとも有名なのは「愛の讃歌」、それに次いで「ラストダンスは私に」「サン・トワ・マミー」でしょうか。いずれも親しみやすい名訳です。渡邊晋賞のパーティーで乾杯の音頭をとったフジテレビの日枝久会長は、
 「私のカラオケのレパートリーのひとつは岩谷さん訳の『マイ ウェイ』です」
 と挨拶していました。
 この歌は、日本ではシナトラの歌で有名になったせいか、アメリカの歌のように思われているきらいがありますが、もともとはクロード・フランソワというフランス人歌手が歌ったシャンソンです。原題「Comme d’habitude」。「いつものように」というような意味合いでしょうか。岩谷さんは尾崎紀世彦のために訳詞をしたようです。

 岩谷時子さんは、多分きょうも仕事場にしている帝国ホテルの一室で美しい言葉を紡ぎだしていることでしょう。90歳の現役作詞家なんて世界広しといえども例のないことです。
 岩谷さん、いつまでもいつまでもお元気でー。

 

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