気紛れDIARY
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ブロードウェイの劇場王
ジェリーさんと筆者
 もとアメリカ国務長官、ノーベル平和賞受賞者ヘンリー・キッシンジャーと会話を交す機会がありました。ほんのふたこと、みことですが……。Just to say Hello に、毛が生えた程度のことと思っていただきたい。
日時は4月23日、午後9時半ごろ。場所はホテルオークラの本館ロビー。その日、午後5時から私たち夫婦はクミコのコンサート(東京国際フォーラム ホールC)を聞き、オークラ内の中国料理店「桃花林」で食事をしました。

紹興酒に漬けた車えびの石焼が、芳しい香りといい、ぷりぷりした歯応えといい、この夜の印象深い逸品でした。ひとり何尾と好きなだけ注文すると、生きたえびを持ってきて紹興酒に漬ける。ガラスの容器なので、えびが酒を飲み苦しがっているやや残酷な姿が、否でも応でも目に入ります。
 ほどよく、えびがお酒を吸ってくれたところでとり出し、土鍋に敷かれた小石(よく熱してある)の上で焼いてくれるのです。「天一」の車えびのお造り

食事をすませロビーに下りたら、どこかで見たような顔の外国人が椅子にかけ、その人より20~30歳若いもうひとりの男性と話をしていました。2,3秒考えて、ヘンリー・キッシンジャーだと思い当たりました。
 念のため、近くにいたホテルのアシスタント・マネジャーに確かめると、
「はい。そのようでございます」
 ホテルマンは、こういうとき決して断定しないものなのでしょうね。無闇と身分を明かしてしまっては、お客様のプライヴァシー侵害になるという配慮でしょうか。私には「そのようでございます」という言い方がいささか滑稽に感じられました。

その人物がキッシンジャーだとわかると、すぐさま私は声をかけようと思い立ったのでした。いちどニューヨークで紹介されたことがあるからです。もちろん向こうが覚えているはずもありませんが、紹介してくれた人の名前、場所を持ち出せば、話の継ぎ穂ぐらいになると思ったということもあります。

ニューヨークでキッシンジャーを紹介されたのは、1998年5月12日、イタリア料理店Orso(46丁目322番地)でのこと。どうしてこんなに鮮明に記憶しているかというと、翌々日の14日、ディズニー、劇団四季共同で、主として在米の日本のプレスに対し、「ライオンキング」日本版製作の記者会見をおこなったからです。
 当時、私は劇団四季の国際担当、記者会見当日は司会をつとめたので、その日の前後のことは忘れようもないというわけです。

Orsoは、あまりおいしいもの屋のないブロードウェイではまあまあのレストランです。ZAGAT2005版で、味の評価は30点満点で22点。私はスモール・ピザ(名は体を現さず、結構大きい)をよく注文します。
 この店はブロードウェイ演劇人の溜まり場として知られていますが、この夜もふと気がつくとそんなに遠くないテーブルにシューバート・オーガニゼーション(ブロードウェイでいちばん多く劇場を所有している)会長、ジェリー・ショーンフェルド夫妻がいるではありませんか。
 ジェリーさんは、私のブロードウェイでのお父さんを任じてくれている人です。私にとってもそう思ってくれていることは嬉しいし、そのお陰でどのくらい恩恵を蒙ったか計りしれません。

早速立ち上がって挨拶にいくと、夫妻の相手客はキッシンジャーでした。そのとき、ジェリーさんが私をキッシンジャーに紹介した文句が実に傑作でした。
「Yasu Abe is my secret agent in Tokyo.」
 Yasushiはアメリカ人に発音しにくいのか、Ron―Yasuではありませんが、私もこう呼ばれることが多いのです。
 この巧まざるジョークに、ジョークを口にした当人を含め一同大笑いしました。なにせ、私に紹介した相手は、同盟国日本の頭を飛び越え、周恩来と会談し、米中接近の糸口を作った隠密外交のエキスパートですからね。

それにしても、あのときショーンフェルド夫妻とキッシンジャーはなんのためにディナーをともにしていたのでしょうか。仕事上の係わり合いはありそうもないので、奇異な感じを受けました。
 夫妻、もと国務長官3人の間にある共通項で、とっさに思いつくのはユダヤ系アメリカ人ということでしょうか。そういえば、ユダヤ人は大のジョーク好きです。彼等は国際関係に敏感で(なにしろ、長い間、流浪の民を続けたわけですから)、それにまつわるジョークを得意としています。
 先のジェリーさんのも、その一種と思われます。

とまあ、そんないきさつがあったので、私は不躾をもかえりみず、ちらりと見掛たキッシンジャーに声をかけたいと思ったわけです。家内は私の何十倍か英語ができるので、イザというときの助っ人に引っ張っていこうと思ったのですが、話し込んでいる最中で失礼だから遠慮したほうがいいと、知らぬ顔を決め込んでいる始末です。
 それで仕方なく1人で近づいていき、話しかけたところ、初めはきょとんとした顔をしていましたが、ジェリー・ショーンフェルドの名前とOrsoの1件を持ち出すと、立ち上がって握手をしてくれました。

私は、世界の数々の要人たちと多くの握手を重ねたてきたであろうキッシンジャーの手の感触を前回と今回と2度も確かめることができたわけです。その手は大きめで、年配のわりには体温の高さが感じられました。ちなみに彼は、1923年5月26日生れです。

同店の稚鮎の天ぷらそれから6日後の4月29日、銀座6丁目の天ぷらの老舗「天一」で、私たち夫婦、家内の両親(父親93歳、母親83歳)で昼食を共にしました。揚げてくれたのは桜井さんというヴェテランの職人さんです。
 天ぷらの前にサイマキのお造りを堪能しました。天ぷら屋では、車えびの9センチぐらいのものをマキ、6センチくらいのをサイマキと呼ぶ慣わしがあります。その日のサイマキは、ほどよい甘さがあり、10本だって20本だって食べられそうでした。
 天ぷらでふたたび車えび、近ごろなかなか獲れない江戸前の小魚ギンボ、出たての稚鮎も揚げてもらいました。

コースの終わりころ、たまたま桜井さんと外国人は天ぷらが好きか?という話題になりました。これだけ世界的なお鮨ブームになっても、お鮨は苦手という外人が、私の知る限りでも結構たくさんいる。それにくらべて天ぷらに拒否反応を示す人は、アジア人欧米人を問わず、ごく少ないのではないか。カウンター越しに、そんな会話を交しました。
 この店でフランク・シナトラが舌鼓を打ったエピソードはかなり有名です。
「クリントン大統領の前でも揚げさせていただきました。そういえばこの前の日曜日、キッシンジャーさんがいらっしゃいました。あの方は前にもおいでいただいたことがあり、ここが気に入っていただけているようです」と桜井さん。

ちょっと待てよ。 この間の日曜日とは23日ということになる。くわしく尋ねると、夜の割合早い時間にやってきて、若いアメリカ人の連れがいたそうだ。あの晩、キッシンジャーとその相手は「天一」で食事をし、そのあとまだ話し足りなくてオークラのロビーでお喋りしていたんだろうか。キッシンジャーは多分、オークラに泊まっていたのだと思う。
 それよりなにより、わずか1週間足らずのうちに、同じ桜井さんが揚げた天ぷらをキッシンジャーも私も食べたとは、人間、どこでどう繋がっているか、わからないものですね。

そういえば、アメリカのお芝居に「Six Degrees of Seperation」というのがあります。映画になり「私に近い6人の他人」という邦題で公開されています。この表題は、ヴェニスのゴンドラ漕ぎとアメリカ大統領とでさえ、間に6人入れば繋がっている、決して他人同士ではないという寓意を含んでいるのだそうです。キッシンジャーと私との間には、桜井さんを含め、さて何人入っているのでしょうか。

キッシンジャーさん、どこかでまたお目にかかるのを楽しみに。

 

23:08 | コメント (11)

 時々、私のホームページをのぞいてくださる皆さん、すっかりご無沙汰いたし申し訳ありません。時々、お会いする機会のある友人、朝妻一郎さん(フジ・パシフィック音楽出版会長)なんかには、
「3月13日から更新してませんね」
といわれたりしていました。
 書きたいネタはいっぱいあったのですが、実は近く出版される単行本の校正に追われ、時間がなかったものですから。390ページもあるので、初校、再校と2度見るのに多くの時間を必要としたというわけです。
 その本というのは、ここ数年間に書いたミュージカル関係の原稿をまとめたもので、題して「ミュージカルI love you/ 華麗な舞台の表裏」。 1999-2006年の東京、ニューヨーク、ロンドンのミュージカル界の動きをパノラマ的かつクロニクル風に展望できる内容にしたつもりです。
 日之出出版から6月中には出版されることになるでしょう。
 言い訳はさておき、さっそく本題のほうに。

コンサートで歌うクミコ 4月23日、東京国際フォーラムホールCでクミコのコンサートを聞きました。クミコは、銀座の老舗シャンソン喫茶「銀巴里」で歌っていたせいか、ついシャンソン歌手というレッテルを貼られてしまいがちです。確かに越路吹雪の持ち歌だった「愛の讃歌」「ラストダンスは私に」などを受け継いでいることでもあり、シャンソン系と見られているのはいた仕方ないことかもしれません。
 しかし、私は、彼女のことをシャンソンという枠に押し込めてしまうのは惜しい、もっと幅のある歌手だと思っています。
 彼女自身、年齢を隠す気配がないのであえて触れますが、クミコは50歳を超えています。その年齢にふさわしい深みのある感情を歌に盛り込むことができる歌手なのです。そのことひとつとっても貴重な存在ではないでしょうか。
 コンサートの会場は、彼女のおとなの歌にしみじみと耳を傾けるおとなのお客様で大入り満員でした。中年夫婦らしいペアが目立ったのも嬉しいことです。

いちばん最初、クミコの歌を聞いたのは俳優座劇場でのコンサートでした。あれは1993年のことだったでしょうか。一種独特の説得力はあるものの、妙に自己主張が強く、表現がこなれていない。会場が会場だからそう感じたのかもしれませんが、新劇女優がそのまま歌手に転向したような依怙地さが気になり、ついていけませんでした。
 曲目がばらばらで、プログラムに方向性がないのも気になりました。
 それからのち、作詞家松本隆さんとのコラボレーションの時期をはさみ、徐々に個性、歌唱力ともにほぐれていったように思われます。

 あの俳優座のコンサートと比べると、今回の彼女は、なにかこう裃(かみしも)のようなものがとれ、歌唱力もステージマナーも歌そのものも、自由闊達な境地に到達していたといっていいでしょう。
 どの一曲にもこつんとぶつかるしっかりした芯がありながら、しかも歌全体にふくよかさが感じられる。果実だったらナイフを当てたとたん、豊潤な液体が飛び出してくるような気がしました。それほど、どの歌をとっても内容が充実していたということです。

 クミコのレパートリーは、見渡したところ、3種類のジャンルがあるようです。ひとつはやっぱりシャンソン。越路から継承した岩谷時子訳のシャンソンばかりでなく、「わが麗しき恋物語」(作詞覚和歌子、作曲Barbara)のような彼女が独自に開拓したものもある。彼女の個性を強く打ち出すには、もちろんこういうもののほうがいい。
 ふたつ目は日本のオリジナル曲。彼女のために作詞・作曲された曲です。「わたしは青空」(作詞覚和歌子、作曲三木たかし)とか「さよならを 私から」(作詞覚和歌子、作曲萩原慎太郎)とか。「ハウルの動く城」(宮崎駿監督)のために久石譲が作曲した主題曲にクミコの専属作詞家?覚さんが歌詞をつけた「人生のメリーゴーランド」も、この部類に入るのでしょうか。
 3番目はいわゆるカヴァー曲。1973年、広島平和音楽祭で美空ひばりが歌った「一本の鉛筆」(作詞 松山善三、作曲 佐藤勝)ほか。 梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」までレパートリーに加えるとは、なんと貪欲な!
 以上、異なった3ジャンルの歌の数々をどううまく混ぜ合わせて一夜のプログラムを作るかが、今後の課題になるにちがいありません。
 今回のコンサートでは幕開けの第1曲が「こんにちは赤ちゃん」だったのですが、私は意表をつかれ、ギクッとなりました。
 歌ったあとの彼女のお喋りによると、「はじめまして わたしがママよ」という母親の呼びかけは、生れてきた赤ん坊にとって人生最初のコミュニケーションなんだそうです。なるほどその通りでしょう。ということを前提に、あるいはそのことを比喩に込めて、その日のお客様への最初のご挨拶のつもりで歌ったのでしょうか。
 そして2曲目が「愛の讃歌」。ディナーが始まったばかりなのに、すぐメイン・ディッシュが運ばれてきたようで、ちょっともったいない気がしないでもありません。

「クミコ・ベスト わが麗しき恋物語」
avex ioより 2006.03.08 リリース
 クミコのコンサートでは、お客様が歌とともに彼女のお喋りを楽しみにしているようなそんな気配が感じられます。歌と同じようにそこには人生経験豊かなおとなの風情が漂っているからです。
 覚和歌子さんが「わたしは青空」の歌詞を書くについては、ヒントとして長崎で起こったあの痛ましい少女殺害事件があったようです。そのあたりの事情に触れるときのクミコの語り口には、過度の感傷を排しつつも深い哀惜の情が滲み出ています。
 彼女は亡き少女の父親の新聞記者と話をする機会があったそうですが、わが身に降りかかった悲劇に黙々と耐えて生きるお父さんの姿に心打たれたということでした。
曲と曲の間で、こういう微妙な話をするのは、よほど虚心坦懐でなくてはできないことでしょう。私は、ほかの歌手にはない彼女の一面をかいま見た気がしました。
 東京国際フォーラムホールCでのコンサートのハネたあと、ロビーでは最新アルバム「わが麗しき恋物語クミコ・ベスト」発売記念サイン会がおこなわれました。250人以上のお客様が並ばれたとのこと、まさに延々長蛇の列でした。

 クミコは遅咲きの歌手です。やっと少し花びらが開いたかに見えます。いっそう円熟の境地を深めることを祈らずにはいられません。

 

12:28 | コメント (1)

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