気紛れDIARY
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 よくも悪くも、おもちゃ箱を引っくり返したような乱雑さである。なかにはそれをキッチュと呼ぶ人もいる。たとえば日経新聞河野孝さん(編集委員)。この松尾スズキ日本語台本・演出の「キャバレー」を白井晃演出の「三文オペラ」と並べこう書く。
 「俗悪で安っぽく、毒々しいものに認められる美的価値をキッチュという。このキッチュな美学を反映させた二つの舞台が上演中で、どぎつい俗悪さを裏返せば隠れた社会の巨悪が露呈する」(10月17日付夕刊)。
 私にとって松尾「キャバレー」はらっきょみたいなもので、皮をむいてもまた皮をむいても、キッチュの裏から「社会の巨悪」は姿を現わしてくれなかった。

ダンスの1場面。 ミュージカル「キャバレー」については多くの注釈は必要なかろう。ボブ・フォッシー監督、ライザ・ミネリ主演の映画でもおなじみである(72年度アカデミー賞監督賞、主演女優賞他)。1929年~30年のベルリンを舞台に、作家志望のアメリカ人青年とイギリス人のキャバレー歌手、ユダヤ人の果物屋とドイツ人で下宿屋をいとなむ寡婦、このふた組のかなりにがい味わいのロマンスが描かれる。ドラマの背景に色濃く漂うのは、ナチスの台頭としのび寄る戦争の影である。それと、この作品には、当時、ベルリンを覆っていたとされる退廃ムードがこの作品には絶対必要だ。残念ながら、松尾「キャバレー」にはそれがこれっぽっちもない。
 退廃につきものの一種の猥雑さも望みたいところだが、この舞台にあるのは単なる出たら目さである。ユーモアとウィットを下品な笑いととり違えている。

 ドラマ全体の狂言回わしでもあるキャバレーの司会者は、楽聖モーツアルトを思わせるかつら、衣裳(ロココ風?)で登場する。常にギター伴奏者を伴っているという趣向も面白い。しかし、そのような工夫がどうしてなされたのか、瞬時にわからせてくれるわけではない。つまり必然性が希薄なのだ。
 いちばんの問題点は、松尾スズキの仕事ぶりに、この作品を作った人々に対しリスペクトが感じられないところである。繰り返すまでもないことだが、作品のなり立ちについて、ここでおさらいをしておく。

 ミュージカル「キャバレー」は、クリストファー・イシャウッドの小説「グッドバイ・トゥ・バーリン」(イギリス人が書いたものだからベルリンを英語読みにしておく。邦題名「救いなき人々」、確か中野好夫訳だった)を原作とする。それを「私はカメラ」というすぐれた戯曲にしたのはジョン・ヴァン・ドルーテン。更にそれが、ハロルド・プリンス製作・演出でミュージカルに“進化”した(作詞ジョン・カンダー、作曲フレッド・エブ)。
 最近では二度も来演しているサム・メンデス版が格段すぐれている。司会役が、のちにアウシュビッツ収容所に入れられたことを暗示するラストが、とりわけ衝撃的だった。

 キャバレー歌手を演じる松雪泰子。 日本人の創作ではドルーテンの芝居を基にした「洪水の前」(台本矢代静一、藤田敏雄、作詞・演出同じく藤田、作曲いずみたく)という傑出した仕事が残されている。この作品は、舞台設定を暗雲漂う戦前の大連にしたアイディアが際立っていた。ところどころロシア民謡を思わせるいずみのミュージカル・ナンバーも忘れがたい。

 松尾「キャバレー」が、これら先人たちの仕事ぶりに敬意がないということは、とりもなおさずイシャウッド以来、眼目としてきた現代史に対する認識が欠けているということでもある。
 人によっては現代日本の暗部を照射していると高く評価する向きもないではない。一種の本歌取りだというのだろう。流行語や尾崎豊の歌詞などをとり込むことがそうなるのか、きわめて疑わしい。

 ミュージカル「キャバレー」の原著作権者たちと代理人はこの大胆というより乱暴な改変を知っているのか、許諾をあたえているのか?あたえていないとしたら、知的所有権の侵害となろう。

 公演全体で私がもっとも買うのは宣伝美術とパンフレット編集(アートディレクション&デザイン河野真一、画寺門孝之、編集大堀久美子他)。ここには舞台よりキッチュ美学がある。ちなみにこの公演、秋の舞台でもっとも切符がとりにくいと聞いている(10月6日~21日、青山劇場、26日~28日、愛知厚生年金会館、11月2日~4日、大阪厚生年金会館大ホール)。10月17日所見。

 

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