気紛れDIARY
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Autumn in Broadway (Ⅱ)

2007年11月26日

 

 秋のニューヨークということで、おのずと連想するのは、ジャズの名曲「Autumn in New York」でしょう。ヴァーノン・デューク、1934年の作詞作曲、フランク・シナトラ、ジョー・スタッフォード、サラ・ヴォーンらがこぞってレコーディングしています。
 これは、ロングアイランドあたりでの夏の休暇を終えたニューヨーカーたちが、マンハッタンでの仕事と社交に戻ってきたときの高揚した気分を、ありのまま歌い上げたものだといえるでしょう。彼等のもとには間もなくサンクスギヴィング・デイ、クリスマスが矢継ぎ早に訪れます。

 ニューヨークの秋はどうして人の気を惹くのだろう
 秋になると芝居の初日に心ときめかせ……
(村尾陸男訳) 
この2行目をもとの英語に当たってみると、
 Autumn in New York,it spells the thrill of first nighting……

 となっています。first nightingという云い回わしがシャレているなあ。初日の晩の劇場のさんざめきはマンハッタンの秋の風物詩ということでしょうか(ただし私の辞書〈研究社英和大辞典〉ではnightは名詞と形容詞のみ、動詞はありませんでした)。

 初日は12月に入ってからですが(裏方ストライキのために現在未定)、11月3日からディズニー製作「The Little Mermaid」のプレヴュウがラント・フォンテン劇場で始まりました。私が見たのは11月7日、プレヴュウ開始直後でしたが、デンヴァーでのトライアウトをすませているせいか、完成品といってもいい仕上がりを見せていました。
「プレイビル」片手に 物語は、アニメ映画「リトル・マーメイド人魚姫」で知られる人魚姫と人間の王子とのロマンスをそっくり踏襲しています。舞台化の場合、水の中をどう表現するかがポイントとなると思いますが、なんとも幻想的な仕上がりで、しばしば陶然となってしまいました。舞台の幅にほぼ近い長さのプラスチックの板を何枚か継ぎ合わせ、それに光線を当てて、海中を、あるいは海底を表現するという趣向です。そのプラスチック板ですが、上がったり下がったり、重ね合わさったり隙間ができたり、自在に変化するよう工夫されています。
 舞台美術はGeorge Tsypin、照明はNatasha Katzです。衣裳のTatiana Noginovaの洗練された色彩感覚にも注目すべきでしょう。いや、これらのクリエイティヴ・チームを率い、個々の才能をじゅうぶんに引き出した演出家Francesca Zambelloの手腕こそ、もっとも褒められるべきかもしれません。
 これほど美しいファンタジーの世界がブロードウェイの劇場に作り出されたのは、初めてのことではないでしょうか。幻想美ということでは、ラスヴェガスのシルク・ドゥ・ソレイユの各種のショウよりこのミュージカルのほうを評価します。

 人魚姫たちの水中での動きをどう表現するかというと、かかとにローラーが埋め込まれた靴をはき(ヒーリーズというのでしょうか)、それで舞台狭ましと走り回るのです。とても軽快で、ひとつ舞台表現の可能性を広げたように思えます。

劇場楽屋にて、
左から演出家フランチェスカ・ザンベロ、
著者ディズニー・シアトリカル・プロダクションズ、
トム・シューマーカー社長
 作曲は、もちろんアニメ版でアカデミー賞最優秀賞及び主題歌賞に輝いたAlan Menkenです。ただ相棒の作詞家Howard Ashman(アニメ版の製作者でもありました)がすでに亡くなっているため、追加の曲ではGlenn Slaterが起用されています。
 ディズニー・シアトリカル・プロダクションズ・クリエイティヴ部門の上級副社長Michele Stecklerが、こんなことをいっていました。
 「うちの社長のトム(Thomas Schumacher)は、初めもとの筋書きが単純過ぎるって乗り気ではなかったの。けれど、アランが自発的に書いた新しいナンバーのお蔭で物語がどんどん深まっていったのね。それでトムもよし舞台化に踏み切ろうって気を起こして……」

 悔しいことに私のヒアリング能力では、歌詞の深さまで理解できないので、改めて活字で一句一句に当たってみたいと思っています。もちろんメンケンの音楽については新旧両方のナンバーとも親和力に富み、気品もじゅうぶんあっていうことありません。

 ディズニー演劇部門としては、「ライオンキング」の人気が依然高く、「メリー・ポピンズ」も舞台成果、売り上げともに悪くないとはいうものの、「メリー・ポピンズ」の前に世に問うた「ターザン」が失敗に終っているだけに、「ザ・リトル・マーメイド」は、数年のロングランは狙いたいところでしょう。
 ニューヨーク・タイムズ首席演劇評論家ベン・ブラントリーが、「ヤング・フランケンシュタイン」をけちょんけちょんにやっつけたことは、前回紹介した通りですが、さて彼は「ザ・リトル・マーメイド」にどんな判定を下すことでしょうか。

 

11:52 | コメント (0)

Autumn in Broadway (Ⅰ)

2007年11月22日

 

 11月初めニューヨークへ行ってきました。10月から始まった劇場裏方組合のストライキ少し前だったので、プレヴュー中の話題作「Young Frankenstein」「The Little mermaid」も見ることができました。ついているのひとこと!
 「ヤング・フランケンシュタイン」は、同名のカルト映画の快作('75年脚本・監督メル・ブルックス)をミュージカル化したものです。きわめて信頼性が高く、また使い勝手のいい映画批評の集大成、双葉十三郎著「外国映画ぼくの500本」(文春新書)では四つ星(最高点五つ星)があたえられています。

「ヤング・フランケンシュタイン」
上演中のヒルトン劇場
 双葉先生の寸評を引きます。
 「怪奇映画パロディのケッ作である。米国の脳外科医が曽祖父フランケンシュタイン博士の遺産を相続、記録を頼りにモンスターを再生したものの、そのモンスターが敵の婚約者とデキてしまったので、自分の脳をモンスターに移植し、めでたくゴールイン」

 舞台のほうも脚本はメル・ブルックス(ジョージ・ミーハンと共同)。そればかりか、彼は全ナンバーの作詞・作曲もやってのけています。そこで振付・演出はスーザン・ストローマン。クリエイティブ・チームに超ヒット作「プロデューサーズ」のお歴々が顔をそろえたわけですから、人気沸騰は当然でしょう。ストーリーのほうもそっくり映画をなぞっています。

 ところで、総制作費1,600万ドル強といわれるこの舞台の出来映えは?曽祖父の実験室のあったトランシルヴァニア城の内外はじめ、舞台装置は誠に立派なのですが、それがかえって空しいという印象をあたえてしまう。ストローマンの振付・演出もそれなりの体裁は整えているものの、決定打にかけています。目の前に出されたご馳走は豪華そのもの、味だって悪くはない、しかし、今ひとつなにかもの足りない。著名なプロデューサー、マーティン・マッカラム(現在、「スパイダーマン」ミュージカル化に係わっている)は、
「ひとことでいうと、コールドなんだね」といっていました。

これが、ニューヨーク・タイムズの
全面広告
 私が「ヤング・フランケンシュタイン」を見たのは、11月5日ですが、ヒルトン劇場のロビーに一歩踏み入れたところで、連れの青鹿宏二(ニューヨークの演劇著作権会社MTIディレクター)さんが、「ベン・ブラントリーがきてますよ」と教えてくれました。通称BB。ニューヨーク・タイムズの首席シアター・クリティックです。
「あれっ8日初日にしては来るのが早いんじゃないの。批評家は初日の一日前に見るんだと思っていたけど」と私。青鹿さんは、「彼に見せるってことはもう出来上がっているってことでしょうか」といっていました。

 ブラントリーの批評がニューヨーク・タイムズを飾ったのは、もちろん初日の翌日の9日です。彼は、ブルックス、ストローマンらの前作「プロデューサーズ」よりも、映画「ヤング・フランケンシュタイン」よりも劣るといい切った。更に史上最高の450ドルというプレミア席の値段にも値しないと。なんと小気味よい一刀両断ぶりではないでしょうか。

 BBは、原作の映画について、「映画作家ブルックスの才能を保証する最高傑作」というポーリン・ケール(雑誌「ニューヨーカー」で健筆を揮った著名な女流映画評論家)の賛辞を引いた上で、「不況時代のハリウッド怪奇映画のパスティッシュ(いい意味での模倣作品、安倍注)」とし、「先行映画にためらうことのない敬意を表している」と書いています。そして、その証拠に「モノクロで撮影したこと、悪臭に満ちたユーモアの爆弾をしかけていること」を挙げています。
 ところが、舞台はというと「下品で騒々しく極彩色」過ぎ「バーレスクかレヴュウ」の域を出ていないというのです。

 BBのこの指摘にあえて蛇足をつけ加えるとすれば、原作にあったB級映画の特色を生かさず、大金を掛け超大作に仕立て上げたのが間違いだったということでしょう。むしろ、この題材ならばお金を掛けずにオフブロードウェイの小さな劇場で上演すべきだったのかもしれません。アメリカ、ショウ・ビジネス界をしたたかに生き抜いてきたはずのブルックスでさえ、こういう判断ミスをするのでしょうか。

 このBBの痛烈な劇評が掲載された同日のニューヨーク・タイムズ・アート・セクションに、プロデューサー側は、「$120のチケット、100,000枚、本日発売」の全面広告をぶち上げました。

 ビジネスと批評の見事な四つ相撲。私はここでブロードウェイの健全な姿の一端を垣間見る思いがします。

 

17:20 | コメント (0)

 前回、私は、松尾スズキ台本・演出の「キャバレー」に、先行作品への敬意と現代史についての歴史認識がまったく欠落していることを指摘した。もちろん、このふたつの事柄は表裏一体である。原作小説からさまざまなミュージカル版に至るまで、すべて作品を貫く通奏低音は、ヒトラーの台頭、ナチスによるユダヤ人弾圧、庶民たちの生活不安、近づきつつある戦争への恐れなどなどである。それらがひしひしと感じられなくて、なにが「キャバレー」か。

 劇中、キャバレーのウェイターたち(ナチスの青少年組織ヒトラー・ユーゲントを連想させる)が歌う「Tomorrow Belongs To Me」というナンバーがある。澄みきった美しさを湛えた旋律がひときわ印象に残る。ナチスに利用されていることに気づかない少年たちの純真さを率直に表現すれば、こういう音楽になるのだろうが、美しければ美しいほど、私は青少年の無垢な気持を踏みにじるナチズムの恐ろしさに思いを致さずにいられない。
 ところが、松尾「キャバレー」ではこのナンバーの志向するアイロニーがごった煮のような猥雑な空間のなかに埋没してしまい、まったく伝わってこないのだ。

 果物屋の主人と下宿屋の女主人が婚約披露のパーティをおこなう場面。宴たけなわ、隠れナチスで党資金の運び屋の首根っこから、衝撃音とともに白い粉?がぱっと舞い上がる。その瞬間、客席からどっと笑い声が起こった。あれはいったいなんのためのギャグ?党員が、果物屋の主人がユダヤ人だったことを初めて知った驚き、それとも単なるナンセンス?

 私はナンセンス・ギャグが楽しめない朴念仁ではない。しかし、この種のエスプリ、ウィットのないギャグに激しい怒りを覚える。これは「キャバレー」の本質を破壊し、観客を誤解に導く冒涜的行為ではないか。

 朝日新聞所載の劇評(編集委員山口宏子さん)に次のようなくだりがあった。
 「近年のS・メンデス演出も、ロンドンの最新版R・ノリス演出も、ナチスのユダヤ人虐殺に焦点を当てていた。松尾版にはこうしたとがった表現はないが、若い娼婦(平岩紙)がシュルツ(引用者注=ユダヤ人の果物屋の主人、小松和重が演じる)に向ける冷たい視線や、鉤十字をつけた踊り子たちの軍隊風の行進などで、集団の狂気が日常と地続きであることを見せて、ぞっとさせる。ただ、私が観劇した日には行進の場面で客席から無邪気な手拍子が起き、これには驚きとまどった」

 ちょっと意地悪なことをいえば、「集団の狂気が日常と地続きであることを見せて」いるとしたら、それは松尾演出ではなく、このミュージカル自体のパワーによるものと思われる。※
 ちなみに「踊り子たちの軍隊風の行進」が見られるのは第2幕冒頭で、ジョー・マステロフのオリジナル台本には次のように書かれている。
 「8人のおんなの娘(こ)たちが踊りながら舞台に登場する。キット・キャット・クラブであることは明らか。(中略)踊りが分散して行き、不吉な軍隊調のドラムの音が聞こえてくる。そして音楽は、戦闘的な曲調の“Tomorrow Belongs To Me”に変ってゆき……」(93年、シアターアプルで上演された際の川本燁子訳)

「キャバレー」の一場面より 【1】 それにしても、なぜこの場面で客席から手拍子が起こったのだろう。ノリのいい音楽に観客が乗っただけ?演出と振付(康本雅子)が作品を的確に捉え、それにもっともふさわしい表現を獲得していないからだ。

 これは私自身の体験である。私が劇場に足を運んだ日、第1幕の終わったところで若い女性客が連れの同じく若い女性客にこういっていた。
 「突然、途中から政治かなんかが飛び出してきてびっくりしたわ」
 なんと能天気な?彼女たちだろう。曖昧模糊たる歴史認識しかない松尾版「キャバレー」でさえ、彼女たちにとっては違和感があったということか。

 このような観客とこのような舞台とが出会い、そこからなにが生じるのか?歴史認識の欠落が風船のようにふくれ上がっていくだけだとしたら、私は空恐ろしい気分にならずにいられない。

 「シアターガイド」11月号に「キャバレー」が組まれていて、そのなかに次のような演出家との一問一答があった(取材・文=武田吏都)。
--ナチスの台頭であるとか、この作品の時代背景は色濃く出していくのでしょうか?
 日本人にリアリティがないことを深く追求したくはないなと思うんですよね。もちろんザッザッって軍靴の音なんかでそれっぽさを出したりするのは簡単なんだけど、そこに重きを置いてると見失うなと思ってて。それよりは人間にとって普遍的な部分をきちんと出していきたい。

「キャバレー」の一場面より 【2】 ナチスの台頭が日本人にとってリアリティがない、というお説なのだろうか。私は「キャバレー」の時代設定(1929~30)以降の生まれだが、少年期、戦争を体験した者のひとりとしてヒトラーとナチスは身近かな存在だった。ヒトラー著「わが闘争」がベストセラーになったこと、父の机の上にも一冊あったことをはっきり記憶している。日独伊三国同盟により日本がますます戦争の泥沼にはまっていったその過程をつぶさに認識したのは、もちろん戦後、もう少しおとなになってからだけれども。
 なるほどナチスも第二次世界大戦も、昭和も丸ごと遠くなりにけり、かもしれない。とはいえ戦前、戦中、戦後、そして21世紀の今日に至るまで現代史は一直線に繋がっているはずだ。過去のひとこまひとこまが遠くなったからといって、歴史のリアリティまで失われてしまったわけではなかろう。

 そしてなにより芸術家が「人間にとって普遍的な部分」を表現したいと思ったら、個々のリアリティの積み重ねこそ必要かつ効果的な手段なのではなかろうか。

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※その後、山口宏子さんとお話しする機会があり、山口さんの眞意は「作品の意図に沿った演出」ということだったと判明しました。新聞評の文章は短縮されているので、私がじゅうぶんに理解できなかったのかもしれません。
2007年11月6日 20:43 追記

 

20:45 | コメント (0)

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