気紛れDIARY
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 23年間、意識の完全に戻らないまま闘病生活を送っていたのだから、年々、彼の名前が忘れ去られていって当然である。近ごろの若い世代には歌を聞いたことのない人も、結構多いのではなかろうか。
 しかし、読売新聞朝刊が社会面トップで追悼記事を掲げたことでもわかるように、日本流行歌史の上でフランク永井の存在は計り知れないくらい大きなものがある。

筆者宛のフランク永井のサイン 低音の魅力
 というわけで、その足跡をたどりたくて「フランク永井リサイタル-ある歌手の喜びと悲しみの記録-実況録音」(ビクター)を聞いてみた。1970年(昭和45年)、厚生年金会館大ホールでおこなわれたリサイタルをそっくりそのまま収録したLP2枚組みのアルバムである。

 まず張りのあるバリトンに聞き惚れてしまう。“低音の魅力”と騒がれただけのことはある。加えてテナー張りの高音からはとろけるような甘さが滲み出る。歌手はなんといっても天性の声が第一条件だと思わずにいられない。
 天から授った声の持ち主は、ともするとその声に酔い痴れるきらいがあるが、彼にはその種の嫌らしさが微塵もない。むしろ声よりも彼の暖かい人間味がじわじわと伝わってくる。
 メロディーやリズムを自在に操るものの、決して技巧に溺れることがないのもさすがだ。

リサイタルでの司会
 当時、歌手のワンマン・ショウには司会者がつきものだった。司会進行もすべて自分ひとりでやってしまう最近の歌手のステージとはかなり趣を異にしていたわけだ。
 しかし、フランクはこのリサイタルではたったひとりで坦々とステージを進めていく。曲と曲との間のお喋りは、米軍トレーラーの運転手、進駐軍下士官クラブの歌手だったころから70年当時に至る15年間の道のりについてだが、内容といい語り口といい実に味わい深い。話術に磨きをかけるべく落語を勉強しただけのことはある(八代目三笑亭可楽のファンだったよし)。

 とくに興味深いのは、自らの発案か誰かのサジェスチョンかわからないけれど、すべて第3人称すなわち「彼」という代名詞が使われている点である。
 あのときはこうだったとか自分で自分のことを語れば、つい感傷的になってしまう。「私」を「彼」に替えることで確かに自分に対しある距離感を置くことができる。
 もしかすると彼は、自己陶酔することなく自分を客観視したかったのか。時代の流れのなかにフランク永井というひとりの歌手を置いて眺めてみたかったのかもしれない。
 おかしいことに彼を私とついいってしまい、いい直したりする個所もある。自分を彼呼ばわりするのは、やはりやりにくかったんでしょうかね。

吉田正氏の集大成アルバム
※『吉田正』さんの『吉』は、
『土』に『口』が正しい表記です。
パソコンではこの字が出ないので、あしからず。
 高度経済成長と連動
 多くの人たちが指摘しているように(もちろん私も同意見)、フランク永井のヒット曲はまさに日本の高度経済成長期とぴたり寄り添っている。「有楽町で逢いましょう」(57)が、大阪の百貨店そごうの東京進出にちなんだ一種のPRソングの側面を持っていたことは、BIRD'S EYEで触れた通りである。
 「西銀座駅前」(58)は地下鉄丸の内線の開通と時を同じうしている。今は銀座線、日比谷線に合わせて「銀座」になってしまったが、数寄屋橋下に出来た新駅は「西銀座」と呼ばれていた。
 ついでにいっておくと、丸の内線は戦後初めてできた地下鉄線である。それまでは戦前に作られた銀座線しかなかった。都内、近郊くまなく路線が張り巡らされた現状からすると、隔世の感を拭い切れない。

 「夜霧の第二国道」(57)でモータリゼーションを、「東京午前三時」(57)「東京ナイト・クラブ」(59)で新しいナイト・ライフを歌い上げ、高度経済成長とそれに伴う消費時代の到来を見事浮き彫りにしている。
 「好き好き好き」(59)の♪パリごのみのファッション・・・・・♪箱根スカイ・ライン・・・・・♪恋のカクテル・コーナー・・・・・などの字句も、あの時代をほうふつとさせてあまりある。

 ちなみにこれらの歌詞のすべては佐伯孝夫氏である。この作詞家の時代に対する鋭い嗅覚には脱帽せずにいられない。佐伯氏がいて吉田氏がいて、そしてフランク永井がいてトリオが組まれたからこそ、あの時代、都会調流行歌と呼ばれた一連のヒット曲が一世を風靡したのではなかろうか。

明けても暮れてもクロスビー
 アルバム「フランク永井リサイタル」に話を戻す。リサイタルは「It's Been A Long Long Time」「Sentimental Journey」など、ジャズ・ソングで幕を開けるが、フランクの巧みなふし回しに舌を巻く。甘い声とぴったりである。そして英語の発音の見事さ。これなら米軍クラブでもやんやの喝采だったことだろう。

 フランクがリサイタルでの司会進行役まで達者にこなしたことはすでに述べたが、そのお喋りのなかでビング・クロスビーについて多くを語っている。クロスビーこそポピュラー音楽史上もっとも偉大な歌手だったこと、フランク・シナトラ、ペリー・コモ、ディーン・マーチンなどの有名歌手たちはすべてクロスビーの模倣からスタートしたこと、模倣は勉強であること、フランク自身、一時期、明けても暮れてもクロスビーだったこと、などなど。
 ほんのちょっとクロスビー張りに歌ってみせるが、この世紀の大歌手の特長を見事に掠めとっていて思わず吹き出してしまう。
 英語の発音といい、この物真似といい、なんという耳のよさ!

フランクの最高傑作「慕情」
 もし私が、フランクの遺作のうちベスト作品はと問われたら、すかさず答える用意ができている。その答えは岩谷時子作詞、吉田正作曲の歌謡組曲「慕情」である。2枚組みアルバムに収録されている1970年のフランク永井リサイタルより遡ること5年、65年の彼のリサイタルで発表された延々17分に及ぶ大作だが、フランクは、上質の感傷を滲ませつつ決して過度の抒情に浸ることなく、ひとりの男の別れた恋人への切々たる「慕情」を歌い上げてみせる。

 1978年、吉田正氏が作曲生活30周年を迎えたおり発売された「生命ある限り/吉田正大全集」(ビクター)に収められているので、久しぶりに聞いてみたが、曲全体に惻々と胸を打つものがあり、瞑目して耳を傾けた。
 この長篇歌謡は、広く知られてはいないが、岩谷さんの、あるいは吉田氏の作品系譜のなかでも大きな意味を持つ作品だと思う。

 歌詞は春夏秋冬と移り変わり、曲はバラッド、スウィング、タンゴと変化に富む。間奏には佐伯、吉田、フランク・トリオのヒット歌謡の片鱗が嫌みなく挿入されたりする。
 とくに主人公がデパートの玩具売り場で子ども連れの昔の恋人を遠くから目にするくだりは圧巻である。歌詞と曲と歌とが一体となってその情景をくっきりと浮かび上がらせずにおかない。

 大衆歌謡の必要条件たる抒情性と感傷性をここまでの高みにまで昇華させたその道のアルチザン3人に、改めて心より拍手を贈る。

 フランクよ、これだけの名作を遺すことができたのだから、もって瞑すべしではないか。

★11月25日UPのBIRD'S EYEもご一読ください。

 

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 米倉涼子、和央ようか、河村隆一主演のミュージカル「シカゴ」については、10月27日付BIRD'S EYE欄にUPしたコラムでとり上げていますが、作品全体の出来、個々の出演者の評価には触れていないので、ここで改めて書いておきたいと思います。

「シカゴ」日本版から、
ヴェルマ役和央ようかとダンサーたち
 女囚コンビのロキシー役米倉、ヴェルマ役和央ですが、私は、断然米倉涼子に軍配を挙げます。ミュージカル初出演の米倉が、独特のボブ・フォッシー・スタイルのダンスをなんとかこなすことができたのは、バレエの基礎があったからでしょうか。
 踊りだけでなく歌も演技も自然体で闊達さがあった。もちろん容姿は抜群、花のあるミュージカル・スターとして大成することを願ってやみません。

 相対する和央は、宝塚の舞台でミュージカル体験を積み重ねてきているはずなのに、技倆的にもうひとつ冴えなかった。大柄の体型も生かし切れていない。男役の殻というか枠というか、そこから脱し切れていないからでしょう(宝塚時代から作り込んだ男役ではなく、生来の男役スターと言われてきたふしもある)。ちょうど私が見た日、となりの席が宝塚出身の真矢みきだったので、
 「あんたの後輩、男役の癖が抜けていないねえ。少し教えてやったら」
 と耳もとで囁いてしまいましたよ。

中央はロキシー役米倉涼子(左)
とフリン役河村隆一
 河村隆一。ハンサム過ぎて悪徳弁護士役フリンには不向きと決め込んでいたのですが、意外にも健闘賞。どぎつさを前面に出さないチャーミングなフリンというのもあるのかなと半分くらい納得してしまいました。集客力という点では凄いものがあったようですし、一概にミスキャストとは断定できないかもしれません。

 ロキシーの浮気相手フレッドを演じる大澄賢也。フレッド役としては幕が開いてすぐに消えてしまうのですが、全篇を通じてダンス場面の引っ張り役、あるいは引き締め役として力を発揮していると思います。このミュージカルはボブ・フォッシー・スタイルのダンスを除いては成立しないわけですから、陰に陽に舞台を支える彼のような存在が絶対必要なのです。
 フォッシー・ダンスの集大成が「フォッシー」の来日公演で唯一の日本人出演者としてステージに立ったこともある彼ならではの役割にちがいありません。

 看守ママ・モートンの田中利花。もっとどぎついアクが欲しかった。メアリー・サンシャインのH.MASUYAMA。ラストのかつらをとるところであっと驚けなかったのはどうして?

 今回のプロダクションで私がいちばん嬉しかったのは、出演者全員が“フォッシーする”ことを最大限心掛け、結果的にすばらしくよくフォッシーしていたことでしょう。とりわけアンサンブル陣のフォッシーぶりは見事というほかない。久しぶりにフォッシー・スタイルのダンスに接し、ぞくぞくしましたよ。

 という意味合いで今回の振付担当ゲイリー・クリスト、彼のアシスタントを務めた大澄賢也に声を大にしてブラボー!と叫びたい。

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ついでながら、ミュージカル『フォッシー』来日公演の際、パンフレットに寄稿した“フォッシー小論”もお読みいただければと思います。

ボブ・フォッシー関係の著作。
筆者のライブラリーより
「性を追及したダンスの魔術師ボブ・フォッシー」

ボブ・フォッシーの振付けたダンスにはどこか窮屈さがつきまとう。そして、そのいかにも窮屈そうな動きは、常にうっ屈した雰囲気をかもし出す。それら独特のダンスが明らかに性を暗示しているのはいうまでもない。特に性のかなでも暗部と思える部分をー。
 常識的にいうとダンスは人間の精神、肉体両面を解放する効用がある。それはダンサーにとっても観客にとってもほどんと変わらないはずだ。ミュージカンが人を楽しませるエンターテイメントである以上、そのなかのもっとも見どころとなるミュージカル・ナンバーが、おおむね明るく解放的に作られるのは、これはもう作品の使命のようなものだろう。

 ところがフォッシーの作り出すナンバーは、そういうこととはどこか対極的なように思える。もちろん例外もあるが、総じてなにかを閉じ込めている、あるいは抑えつけているように見えないだろうか。

 ボブ・フォッシーの振付けという誰もがこんな動きやポーズをすぐに思いつくにちがいない。ちょっと傾げたボウラーズ・ハット、掌を広げた両手、強調されたお尻の線、肩と太ももをばらばらに動かす、やや斜めの気どったポーズでからだを突き出す・・・・

 『フォッシー』がロンドンで上演されたとき、ザ・サンデー・タイムズがこう書いた。「ダンサーたちは床を滑るかと思うと、鳥のように胸をそっくり返らせた歩く。振付という装いがあるものの、それは性的エネルギーの表出だ。性の寛大な社会でなくては許されないものだろう」

同紙は、ロンドン公演のリハーサルの第1回目、プロデューサーのひとりが、オーディションに受かったダンサーたちを前に、こういったという話も伝えられている。「この作品にはなにかを呼び起こすような1本の線が通っている。それは男と女の、男同士の、そして女同士の戦いだ。さあこれから感情豊かなひとつの旅が始まるんだぞ」

 ミュージカル『フォッシー』には直接的に性を表現しているようなダンスもあるが、それ以上に間接的に性を想起させるダンスが散りばめられている。なに気ない動きやポーズに性の暗喩を嗅ぎとるというのも『フォッシー』の楽しみ方のひとつとしてありかもしれない。

 振付家ボブ・フォッシーと性表現との関係は、多分、少年期にまで遡ることができる。フォッシーは1927年、シカゴの中流家庭に生まれた。血統的にはスウェーデンとアイルランドの末裔といわれる。父は保険外交員だったが、その前に、スプーンを操るボードヴィル・ショーの芸人だった。父親は幼いボブにダンスの才能のあることを見抜き、積極的にその道を進むことを薦めた。本人もやる気じゅうぶんだったようだ。

 9歳で専門のスタジオに通い始め、13歳でジュニア・ハイスクールに進むと、昼は学校、夜は小さなキャバレーに出演するという二重生活を送るようになった。ショーの題名は“ボビー・フォッシー・ル・プティ・キャバレー”、幼い彼が一枚看板だった。歌、タップ、小話となんでも器用にこなしたという。

 そのような夜の仕事場は、酒とタバコの臭いにむせ返り、否応なし、おとなの男と女の危うくて怪しい関係と目の当たりにすることになる。楽屋にはストリーッパーのお姐さんたちがうようよしていた。いきおいボブ少年は彼女たちのペットにされたことだろう。彼の“春の目覚め”が同い歳の男の子たちよりも何倍も早かったのは想像に難くない。
 
 晩年のフォッシーは髪もほとんどなくなりかけていたが、20歳のころの写真を見ると、どうしてなかなかハンサムである。少年時代以上に年長の女たちがほっておかったにちがいない。

 ナイト・クラブ・アクトの二人組みを結成し、やがて彼の最初の夫人に納まるダンサーのメリーアン・ナイルズもずっと年上だった。少年期、青年期のフォッシーは年上の女たちから“性とはなにか”についてたっぷり叩き込まれたはずだ。

 父親が見込んだ通り、フォッシーはダンスの天分に恵まれていたことだろう。若い彼がハンサムだったことも間違いない。しかしスレンダーな肢体を誇り得たかどうかはきわめて疑わしい。決して背が高いほうではなし、割合早くから髪が薄くなり出したし、実は内股だったとも言われる。

 彼の振付の特色はすべて彼の肉体的コンプレックスからきているという説まであるのだ。
 ボウラーズ・ハットははげのため、手袋は自分の手が嫌いなため、足を内側へ内側へと回転させるのは内股のためだというのだが、どこまで真実かわからない。

 『キャッツ』、『オペラ座の怪人』の振付家ジリアン・リンがこんな証言をしている。「80年代だったかしら、ニューヨークの稽古場でボブと隣り同士だったことがあるの。で、ときどき覗きにいったのよ。彼、踊りのディテールを作るのに格闘していたわ。手をこうひっくり返したりああひっくり返したしして、効果を確かめてた。彼のスタイルは彼自身の肉体からきている。そうやって作り出した踊りをダンサーたちに押しつけるのよ。ダンサーたちのことを無視した振付なんだから」

 このくらい徹底して自己本位だからこそ、フォッシーは、彼独自のダンス・スタイルの確立できたのかもしれない。

 少なくとも彼の美学は常識的なうわべだけの美しさを否定することにあった。『キャバレー』を振付けたとき、ダンサーたちに「腋毛を剃るな、もっと太れ」と命じたというエピソードも残されている。

 フォッシーの死後、皮肉なことに生前以上に彼の独創性への評価が高まっている。フォッシー・ダンスの集大成ともいうべきミュージカル『フォッシー』が、その気運の一翼を担ってきたことは断るまでもない。『シカゴ』リバイバル版が、ニューヨーク、ロンドンともにオリジナル版がかなわないくらいロングランを続けているのを、草葉の陰から本人はどんな眼差しで眺めていることだろうか。

 なお、このリバイバル版に触発されたかのように、今、映画化が進んでいる。配役はリチャード・ギア、レニー・ゼルウィガー、キャサリン・セタ・ジョーンズら。

 性という人間の業について、また女性という名の魔物についてダンスを通して追及して巳まなかったフォッシー再評価は、まだ当分続きそうな気配である。

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写真提供/(C)渡辺マコト

 

19:25 | コメント (9)

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