気紛れDIARY
: 安倍 寧 Official Web Site

スクラップ帖に残っている記事 6月26日午前9時、読売新聞の電話でマイケル・ジャクソンの死を知った。今から25年前の夏、カンザス・シティーで初めて彼のコンサートを見たときの見聞をまとめた記事が私のスクラップ・ブックに残っている。掲載誌は「週刊朝日」1984年8月10日号。多分、彼の生のコンサートの印象記としてはいちばん早いものではなかったか。

スクラップ帖に残っている記事 記事のなかのコンサートの切符を用意してくれた“年来の友”とはジャニー喜多川さんである。カンザス・シティーの空港に降り立つと、ジャニーさんが待ってくれていた。もちろんコンサートも一緒に見た。今からちょうど四半世紀前の思い出である。

<カンザスシチーで感じた全米コンサートツアーの興奮は一夜の夢>
音楽評論家 安倍寧

ジャクソンズ時代 アメリカ中西部の夏はいつまでも日が高い。午後八時半をまわっても中天は抜けるような空色に輝いている。十時近く、ようやく宵闇がしのび寄ってきた。そのとたん、カンザスシチー・アローヘッド・スタジアムの夜間照明がいっせいに灯いた。
 耳をつんざくエレキギターとシンセサイザーの大音響。舞台上には緑、青、紫三色のスモークが充満し、そのなかを巨塔かと見まごう怪獣がうごめいている。それにひとりの騎士がレーザー剣を持って襲いかかる。このオープニング、中世英国のアーサー王伝説にちなんだものという。

ステージで歌うマイケル  何分かのち、改めてステージ中央にスポットライトが走り、先ほど騎士を演じていた若者がその全身をあらわにした。銀色の総スパンコールの上衣、深紅のサッシュベルトといういでたちのマイケル・ジャクソンである。本来はサッカー場だというスタジアムを埋めつくした四万五千人の観衆が総立ちとなる。

 気がついたら私自身も、双眼鏡を目に当てたままベンチの上に立ち上がっていた。七月八日夜のことだ。

 実は、私が七月初めから二週間の予定でアメリカに出かけたのは、ブロードウェーの新作をいくつか見てまわるのが目的だった。ところが、ニューヨークに着くと、年来の友人が、マイケルの切符が一枚ある、ツアーの皮切り公演だからカンザスまで飛べという。

 正直言って、片道三時間もかけてミズーリの田舎町まで、アイドル歌手とそのファンのマス・ヒステリアぶりを見に出かけるのは、気が重かった。しかし、結果的にはトンボ返りでいってみてよかった。
 マイケルのずば抜けたタレント性と彼を支える徹底した物量作戦を、この目で見ることができたからだ。

 マイケル・ジャクソンは、プレスリー、ビートルズ以降しばらく空席だったスーパースターの座を埋める存在といわれる。しかし、マイケルにはプレスリーの野卑さとは異なる垢抜けた個性、ビートルズの稚拙さとはくらべものにならない歌唱力がある。ユーモラスでしかも迫力十分なダンス力も兼ね備えている。

 私は、彼の多彩でしたたかな芸達者ぶりに目を見開かされたが、それを裏書きするかのように、アメリカの新聞雑誌には往年のフレッド・アステアの系譜を継ぐという論評がいくつかあった。時代、人種、個性、芸風すべての点で、ふたりは遠く隔たっているものの、歌って踊るショーマンシップの持ち主ということでは確かに似通っている。アメリカ人たちが、やや無理してまで正統派エンターテイナーの嫡流として認知したいという気持ちも、わからないではない。

若き日のマイケル マイケルの魅力のひとつは、天にもとどけと歌い上げるあの高音にある。野外スタジアムでそれがどこまで伝わるか大いに不安だったが、完璧に生かされていた。スピーカー百二十個の威力である。

 ついでながら照明器材二千二百個。舞台は、間口五十メートル、奥行き三十メートル、五階建てで五個のエレベーターつき。この舞台機構をフル回転させるためのコンピューターが七個という。

 これだけの設備を移動させながら、ツアーは十一月上旬まで十三都市で計四十八回おこなわれるが、プロデューサーは、イニシャル・コストとしてすでに千五百万ドル(約三十六億七千五百万円)注ぎ込んでいる。「キャッツ」級の超大型ミュージカルでさえ、五百万ドル(約十二億二千五百万円)あればブロードウェーで幕が開けられる。いかにすざましい金のかけっぷりか想像がつこう。

 もちろん今回のツアーは、これだけ投資しても十分にペイする。つまりそれだけファンがいるということで、ツアー全体の観客総数はゆうに二百万人を超えると予測される。

 ファン層の核をなすのは、当然、十代の少年少女だが、おとなも多い。アローヘッド・スタジアムでも家族連れが結構目立った。黒人もいれば白人もいた。

 彼のアルバム「スリラー」は米国内で二千万枚(全世界だと三千五百万枚)売れたというが、いったい、この人気の秘密はどこにあるのか。

 例によって社会心理学、精神分析学がなにより大好きというお国柄である。テレビ、新聞にそうそうたる学者、医者が登場して、ああでもないこうでもないと飽くことなく意見をたたかわせていた。
 いわく、
「彼の数少ない友人のひとりジェーン・フォンダが証言しているように、マイケルはきわめて傷つきやすい青年。そういう素顔がステージ上の彼からも垣間見られ、女性の母性本能を刺激するのではないか」
 あるいは、
「彼の清潔さ優しさ無邪気さが、マッチョ(男性誇示)型のボーイフレンドに潜在的恐怖感を抱く少女たちの慰めとなっている」
 わかったようでわからない議論も多かったが、そのうちアンドロジ二ーという言葉がしばしば使われているのに気がついた。どうやらこれがひとつのキーワードらしい。耳慣れない言葉なので辞書を引いたら、「両性具有」とあった。
「ニューヨーク・タイムズ」に載っていたコーネル医科大学ジョン・R・ロス氏(臨床心理学)の意見を紹介しよう。
「人間だれしも十代初期にはふたつの性の間を行きつ戻りつしている。それが、十五歳過ぎると無意識の領域に潜ってしまうだけのこと。マイケルはふたつの性を同時に生きるというすばらしい理想を体現している。
 彼のアンドロジニーは、少年少女たちに恍惚感をもたらさずにおかないだろう」

 両性具有とはどちらかひとつの性を選択しないということ、すなわち、おとなへの脱皮を拒否するということである。

 少年か少女か判別しにくい、年齢不詳の創作上の登場人物といえば、私たちは真っ先にピーターパンを思い浮かべる。偶然にもマイケル自身、
「ぼくがいちばん親近感を寄せる人物は永遠の生命を持っているピーターパンだ」
と語っている。
 だとすれば、彼を黒いピーターパンと呼んでも誤りではあるまい。

 残された問題は、両性具有の黒いピーターパンが、なにゆえ現代のアメリカでスーパーヒーローたり得たかである。

 人間すべて永遠の生命にあこがれを抱くからか。
麻薬と暴力におかされた若者たちが、彼による魂の浄化と救済を願うからか。

 意外におとなのファンも多いのは、経済社会での生存競争に疲れた彼らが、マイケルにあやかり現実逃避の夢を見たいからか。

 高名なユング心理学者は「彼には一握りの現実感さえない」といっていたが、あのカンザスシチーのコンサートもまた、いまとなっては一場の夢という気がしないでもない。

 

14:30 | コメント (0)

 5月11日、作曲家三木たかしさんが亡くなられました。流行歌の世界でのヒット・メーカーぶりについては改めて申すまでもありませんが、他にミュージカル作曲家としての側面もありました。とくに劇団四季の創作ミュージカルでは欠かせない存在だったといえましょう。以下は劇団四季代表で演出家の浅利慶太さんと私による追悼対談です。
 なお、この対談は、「ミュージカル李香蘭」(6月6日~21日、四季劇場[秋])「ミュージカル異国の丘」(6月27日~7月5日、同劇場)の再演パンフレットからの再録です。

「ミュージカル李香蘭」より
撮影:上原タカシ
安倍 そもそも三木たかしさんが劇団四季と係り合うようになったきっかけは、東芝EMIで越路吹雪のディレクターをしていて、四季の音楽監督でもあった渋谷森久さんだったね。

浅利 『ジーザス・クライスト=スーパースター』を新しく演出し直す際に、アンドリュー・ロイド=ウェバーの音楽の編曲を、渋谷さんの紹介で三木ちゃんがやってくれた。

安倍 彼はロイド=ウェバーから影響を受けたようで、あとあとまで「オリジナルを書こうと思っても、頭の中でロイド=ウェバーが鳴っちゃって、どうにもならない。追い出すのに苦労してる」と言ってた。元々ミュージカルには興味があったようで、若い頃ニューヨークに渡っていろいろと勉強した時期もある。

浅利 だから、演歌、歌謡曲だけじゃなく、幅広いジャンルの曲が書けたんだね。しかも、彼ほど心に残る、美しいメロディーを書く作曲家はいないと思う。僕は、いずみたくや三木たかしという、メロディーを持った作曲家と仕事ができて幸せだった。

安倍 いや、あなただけじゃなく、四季にとっても、観客にとっても幸せだったんじゃないかな。

浅利 四季のオリジナルミュージカルが、これほどお客様に愛されているのは、三木ちゃんの音楽の力が大きいね。

【演歌嫌い】

浅利 読売新聞の「編集手帳」に出た三木ちゃんの追悼文を読んだら、彼は演歌が嫌いだったと書いてあった。何故かと言うと、演歌が後ろから自分を引っ張って、なかなか決別できないからだと。それはやはり、日本の演歌を代表する曲を書いた人だから言えることだね。

安倍 あなたから聞いたと思うのだけれど、皇太子殿下が「津軽海峡・冬景色」がお好きで、カラオケで歌われることもあるとか。『李香蘭』をご覧になられた折に、「作曲は三木たかしさん」と申し上げたら、「ああ、『津軽海峡・冬景色』の」と即答なされた。演歌の大作曲家で、一国の皇太子殿下が口ずさむほどの名曲まで残していたけれど、どこかで演歌を吹っ切りたいという想いがあったんだろうね。

浅利 そういう意味では、ミュージカルの音楽を書いて、三木ちゃんも幸せだったんじゃないかな。

「夢から醒めた夢」より
撮影:上原タカシ
【四季ミュージカルと三木さん】

安倍 三木さんが四季に書いてくれた作品では、何が一番好き?

浅利 すべてだね。どの作品にも思い入れがあって、決められない。彼が曲を先に書いて、僕がそれに歌詞をつけるというケースが多かった。ミュージカル創りには、「メロ先」という手法があってね。重要ナンバーをどう創るか、作曲家と作詞家の間でまず打合せをする。普通は詞に曲をつけるというのが一般的だけれど、僕と三木ちゃんの場合、彼がメロディーの作曲を先行させ、後で僕が場面のイメージに従い作詞するというケースがかなりあった。確か『異国の丘』の時だったと思うけど、僕がミラノのスカラ座で『トゥーランドット』演出の仕事をしていた時、部屋にどっさり彼からの新しい譜面が送られてきて、毎日の稽古から帰っては、必死に作詞をしたことを懐かしく思い出す。

安倍 『異国の丘』といえば、三木さんは亡き吉田正さんを師と仰いでいた。吉田さんも彼のことを可愛がっていた。だから、「異国の丘」という吉田さんの代表作を劇中に使い、題名もそれにあやかったこのミュージカルに賭ける三木さんの意気込みは、凄まじかったんだろうね。

浅利 幕開きの「明日への祈り」のメロディーは、「吉田さんが僕に書かせてくれた」と、三木ちゃんは言ってたね。

安倍 三木さんは遠慮して、あなたには直接言わなかったかもしれないけど、あなたに曲の書き直しを命じられて、その度に徹夜になって、まるで苛められてるようだったって笑いながら話してたよ。でも、それがやり甲斐があってまた楽しいとも。何度もチャレンジするのがね。

浅利 一心同体で仕事をした。だから、彼とは新しいミュージカルをもっともっと一緒に創りたかったな。まさかこんなに早く旅立つとは思っていませんでした。

安倍 ミュージカル作曲家としての可能性をまだまだ沢山秘めていたのに――。

浅利 ……涙、だね。

安倍 まったく……。

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三木たかし
撮影:荒井健
★みき・たかし
一九四五年一月十二日東京都生まれ。作曲家・船村徹、小野満に師事し、歌・作曲・編曲を学ぶ。五九年よりアレンジャーとしての活動を始め、六七年「恋はハートで」(泉アキ)で作曲家デビュー。石川さゆり「津軽海峡・冬景色」(七七年)、テレサ・テン「つぐない」(八四年)などのヒット曲を連発する傍ら、ミュージカルの創作にも進出。劇団四季オリジナルミュージカルの代表作のほとんどを手掛けた。〇五年紫綬褒章受章。


【三木たかしさん作曲・編曲による劇団四季の上演作品】

初演上演年 / 公演名 / 備考
1976 / ジーザス・クライスト=スーパースター(エルサレム・バージョン)/ 編曲
1977 / ユタとふしぎな仲間たち(※1)/ 作曲
1977 / わが青春の北壁 / 作・編曲
1984 / ユタ-座敷わらしと少年の不思議なミュージカル(※1)/ 作曲
1985 / ドリーミング(※2)/ 作曲
1987 / 夢からさめた夢 / 作曲
1988 / 35ステップス Singing&Dancing / 編曲
1988 / 新・はだかの王様 / 作曲
1988 / 夢から醒めた夢 / 作曲
1989 / ユタと不思議な仲間たち(※1)/ 作曲
1991 / ミュージカル李香蘭 / 作曲
1992 / ジョン万次郎の夢 / 作曲
1993 / 夢から醒めた夢(改作)/ 作曲
2001 / ミュージカル異国の丘 / 作曲
2003 / 青い鳥(※2)/ 作曲
2004 / ミュージカル南十字星 / 作曲

※1=同一公演。曲目に変更点がございます。
※2=同一公演。一部を三木さんが手掛けていらっしゃいます。

★劇団四季ホームページ
http://www.shiki.gr.jp/main.html

 

11:00 | コメント (1)

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