気紛れDIARY
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戦後60年、ニューヨークで思ったこと

2005年08月24日

 

ことしの夏もそろそろ終わりに近づきつつあります。2005年8月は、あの戦争(太平洋戦争、大東亜戦争など名称ひとつとっても統一されていません)が終わってから、具体的にいえば日本が完膚無きまでに打ちのめされてから、丸60年たったということで、さまざまな顧回行事が行われたようです。マスコミ上でもいろいろな論議が交わされました。

 

敗戦60周年ということは、1945年(昭和20年)に生まれた赤ん坊が還暦を迎えるということに等しいわけです。当然ながら45年生まれの人たちには戦争体験がありません。主食は配給制度、いつも空きっ腹を抱えていた戦中戦後の食糧事情を知ることもないでしょう。45年生まれ以降の“戦争を(戦後さえも)知らない子どもたち、ならぬおとなたち”が圧倒的多数を占めているのがわが日本の現状です。

昭和20年8月15日、私は国民学校と改称されていた小学校の6年生でした。昭和天皇の玉音放送は、疎開先の静岡県駿東郡高根村(現、御殿場市)の学校校庭で耳を済ませて聞きました。空は青く晴れ上がっていました。高根村では校長先生をはじめとして、「日本人が最後のひとりとなるまで戦おう」と誤って聞いたおとなたちは、幸いいなかったようです。

ついきのうまで大平洋上の航空母艦から飛び立ったグラマン戦闘機が、この山村にまで飛来し機銃掃射をおこなうこともしばしばでした。

警戒警報のサイレンが鳴り響き、学校からあわてて帰途につくと、グラマンが頭上にやってきて機関銃をぶっ放されたこともあります。ふと見上げると、飛行士の顔が間近に迫って見えました。銃弾が私のからだの横1メートルほどのところを土埃を立てて通り過ぎて行きました。

今(日本時間8月24日午前11時21分)、私はこの原稿をニューヨークからの帰りのアメリカン航空167便の機内で書いています。もし60年前、グラマンにやられていたら、こうしてアメリカン航空に乗っていることもないでしょう。アメリカの旅客機だけに、特別の思いに囚われずにいられません。

1965年、最初にアメリカを訪れてから、この国と日本の間をなんど往き来してきたでしょうか。暇なとき古いパスポートを一堂に集め数えてみたいと思います。100回近く、いや100回を超えているかも。

こんなに往ったり来たりしたのは、多分、アメリカと性が合うんでしょうね。戦争で痛めつけられた(原爆をふたつも落とした国ですよ)アメリカが好きになるなんてどうしてと、時折考え込んでしまいます。

確かに日本は戦争でアメリカに痛めつけられました。しかし、戦後の日本にそのアメリカがもたらしてくれた解放感、これはまた格別のものでした。戦前、戦中の日本の小学校では天皇皇后両陛下の“御神影”に参拝することが、毎朝、義務づけられていました。あの強制的行事から解放されただけでも、どんな伸び伸びした気持ちを味わえたことか。

この8月、私は2週間ニューヨークについて、休暇とはいえブロードウェイの劇場に通ったり、ショウ・ビジネス関係の人たちと食事をしたり、大いに有意義な日々を過ごしました。その間に敗戦記念日の8月15日(アメリカ時間では14日)もありました。この時期、アメリカにいると、どうしても考えずにいられないのは、これだけ強大な国力を有するアメリカと、なぜ戦争を始める気を起こしたのかということです。石油資源などエネルギー問題で日本が追い詰められていたのも事実です。しかし、日本が帝国主義的野望を近隣諸国に対しむき出しにしていたことも間違いありません。日米国力の差を認識し得ず、していたとしても開戦に踏み切り国民を悲惨のどん底におとし入れた当時の国家指導者の責任は、免れ得ないでしょう。

私の付合っているショウ・ビジネス関係者はユダヤ系、民主党支持者が多く、誰もがブッシュ大統領を好戦的と思っています。ニューヨーク・タイムズの論調もおおむねそのようです。友人知人やニューヨーク・タイムズに影響されたのか、この2週間、私はかつての日本の指導者たちとブッシュ大統領を重ね合わせずにいられませんでした。

 

2005年08月24日 12:00

コメント

先生、HR開設おめでとうございます。
私も年齢がわかってしまいますが、疎開組です。
多々、共感するところありました。
Top Stageもおかげさまで好調です。
また、ニューヨークの近況を教えてください。

投稿者 高野光生 : 2005年08月29日 11:00

アベセンセ
素敵なHPですね。感動ものです。私の父も、大阪駅近くの線路上で米軍の飛行機に追っかけられて、飛行士の顔まで覚えがあると言っていました。貨車と貨車の間に逃げ込めたので助かったと。今日、坂手さんの「だるまさんがころんだ」を観て、心の中を整理中です。

投稿者 月島らいら : 2005年08月31日 02:00

安倍先生のご意見に感動しました。私の愚痴を聞いてください。私の父は海軍軍人でした。
輸送船に乗っていて敗戦を知らずに3日後に米軍のビラで知ったそうです。それも千島での事です。輸送船に物資がたくさんあり、トラックで持ち出し仲間の1人が捕まり首謀者として軍法会議にかけられ、青森刑務所に入れられ、栄養失調で4ヵ月後に釈放されています。そんな父ですが、「俺は戦争に行ったが人を殺した事がない」のが自慢でした。

昭和21年3月21日に母が結核で死に、4歳の弟が9月7日に疫痢で亡くなったのです。
太平洋戦争開戦の年に生まれた私はB29の爆音と停電でお風呂場が暗くなるのが怖かったこと位しか覚えていませんが。その後、西伊豆の母方の祖父の家に預けられ、弟と同い年の従兄弟と生活し、物資のなかった頃でも網元であった祖父に可愛がられたのです。しかし父が再婚し、2年生で引き取られました。

65歳になる今でも戦争の犠牲者だとの思いが抜けません。けれど自分で考え自分で行動しなければいけない事はわかっていました。私の息子は要するにタカ派です。
同居していますが、意見が違い、私の惨めさ・無念さ・が伝わっていないのです。

父は昭和の終わりに死ぬまで今に世の中がおかしくなると予言めいた事を度々申していましたが、正しかった気がします。

いろいろ反戦に関する本を読みましたが、如何してあの戦争は
起こったか、敗戦後も犠牲者が出ていたのかわかりません。
今でも、九州は防空壕が張り巡らされていて、又、炭鉱のあとが陥没して、有明の干潟がヘドロ化しているそうです。
沖縄には行った事がないのですが、未だに骨がたくさんうまっているそうですね。
とにかく世界が平和でないと、食量問題で戦争が起きるのではないかと心配しています。平成天皇は平和主義者ですのに。

投稿者 浅川さと子 : 2006年03月27日 20:56

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